齢55にしてコピーバンドとかやってる

2017.03.26レピッシュ・音楽関係

1985年8月24日、この日はレピッシュにとって中野サンプラザでの「イーストウエスト決勝」で、当時23歳だった私にとってはレピッシュのメンバーとして大っぴらに人前に立った最後の日でした。

厳密にはその翌日か、数日後、新宿の「N.Y.アンチノック」という小さなライブハウスで演奏したのがレピッシュ・メンバーとしての最後の日だったと記憶しています。最後のライブだというのに難しい新曲も1曲弾いたことを覚えています。それはレピッシュがメジャー・デビュー後、トッド・ラングレン氏のプロデュースで世に問うた力作アルバム「からくりハウス」に収められていた「非情階段」(作曲:上田現)というスカ曲のプロトタイプで、歌詞は異なっていましたが、曲の構成は、ほぼ同様のものでした。

レピッシュを辞めた自分は、その後、後輩たちとビートバンド的なものをやったり、故・中尊寺ゆつこさんのバンド「ロシアバレエ団」のベースのお手伝いをしたり、その少し前の時期にロフトやラ・ママなどで人気のあった「ブギー」というR&Rバンドのメンバーとつるんだりしていましたが、就職後2年程でベースに触ることも無くなりました。

長いインターバルの後、およそ30年ぶりに弾いたのは、以前も書いた通り、故・上田現氏を偲ぶ意味合いのライブに、MAGUMIからゲストとして呼んで頂いた折りです。その後は再び全く弾いていませんでしたが、2年程前から仕事のお仲間に誘われてコピーバンドなんぞをやったりしています。

全くもって下手くそで自分が嫌になりますが、指を使っているとボケないという話もありますので、楽しめる範囲で少しずつ弾いて行こうと思っています。

easy come easy go
brown sugar


レピッシュ・音楽関係