アルツーロ・メルツァリオ・インタビュー全文

2015.06.26モータースポーツ

先月(2015年5月)末に発売された「レーシング・オン」No.477「ロニー・ピーターソン」特集号、FBなどでお知らせしました通り、私も少しお手伝いさせて頂けたのですが、同号に併せて収録して頂いたアルツーロ・メルツァリオ氏へのインタビュー記事は、スペースの都合で、ロニー関連部分だけに絞らざるを得ませんでした。

そこで、同誌・小嶋編集長の了解を頂きまして、割愛した部分も含めたインタビュー記事(メルツァリオ氏の発言のみで構成したコメント原稿形式)を、このブログ上に掲載させて頂くことにしました。下記は、その全文です。どうぞお楽しみください

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●原稿は、一部「レーシング・オン」No.477から抜粋。
●通訳:Yuko-NOGUCHI(野口祐子)
●メルツァリオ・アカデミー
http://www.inpistaconarturo.it/

「今回はウルフ・カウンタック3号車のレストレーション発表パーティにゲストとして招待されて来日したんだ。ウルフは1976年からF1を始め、私は正にその年にウルフのF1をドライヴしたから、縁のあるドライバーということで呼んで頂けた。もっともその年のマシーンは生粋のウルフというよりもヘスケスとウィリアムズを混合したようなマシーンだったけどね(笑)。」

「今でもヴィンテージ・イベントやアバルトなどのレースで走っている。ヴィンテージ・イベントでの私は生き証人みたいな役割だね。テレビでレースの解説をしたり、“メルツァリオ・アカデミー”というドライヴィング・スクールのオーガナイズもしている。年間30回程度、1回あたり35人ぐらいの生徒に、モンツァ等のサーキットでドライヴィングを教えているんだ。」

「映画“RUSH”劇中のジェームス・ハントはしょっちゅうウィスキーを呑んでいたように描かれていたけど、実際は他の皆と同じ程度に呑んでいただけだと思う。ニキは真面目で一滴も呑まず、ジェームスだけが大騒ぎしていたみたいな言われ方が多いけど、実際は皆同じような感じだった。僕はビールが嫌いでコカ・コーラだけどね(笑)。ニキとジェームスだってライバルというよりも、友達だった。彼らだけでなく、ドライバーはみんな友達だった。でもサーキットで走る時はみんな敵同士になる。サーキットを離れたら友達だけど、いったん走るとなったらまるで“刺し合い”。それが普通だった。」

「走っている時に敵同士なのは今も同じ。ただ、今と違うのは、昔はパドックでは和気あいあいとやっていたということ。今は各人のモーターホームがあって、その中に籠ることが多いから、ドライバー同士の人間関係は希薄になっている。昔はサーキット以外では、プールに行ったり音楽をやったり、皆で楽しんでいた。だけど今はそれが無い。かつては別のチームのメカニック同士が一緒に食事をするような事も普通にあったけれど、ここ20年ぐらい、スポンサーが凄く厳しくなって、今はそんな事すら出来ない。ビジネスが介在しているからね。例えばこういうインタビューだって、今では話す内容からアンサーまで全て指示される。僕の時代はそれぞれが好きなように話す事が出来たよ。」

「当時のマシーンはマテリアル、設計、加工が発展途上だった。サスペンションやブレーキ等の微細な部品の加工精度やマテリアルの問題でマシーンがコースアウトしてクラッシュしてしまったりした。コース環境も同様で、今はエスケープできるスペースが広いけれど、昔は木が立っていたり壁があったりして衝突の危険が多かった。ここ20年、カーボンファイバーや防火システムなどで、マシーンの安全性は格段に高まった。40年前にはそれがなく、最も重大な問題は火災だった。クラッシュするとすぐ火が出てしまう。しかしドライバーとしてはその現実を受け入れるしか無かった。友人が何人も亡くなっていく中で、みんな恐怖を感じながらも、まさか自分の身には起こらないと信じて走っていたんだ。安全性が高くなかったのは、エンジニアとかドライバーのテクニックのせいではない。40年前のテクノロジーやマテリアル故のことだ。だから仕方が無かったんだ。今はコンピュータを使ってクラッシュのシュミレーションができるが、昔のドライバーは自分たちの身体でテストをしていたというわけ(苦笑)。そういう時代だった。」

「先にも話した通り、ドライバー同士はある意味でみんな友達であり、同時に敵同士だったわけだが、家が近かったり、時期が同じだったりということもあって、僕にとってはマリオ・アンドレッティとクレイ・レガッツォーニの二人は特別な友人だった。フェラーリに入る前、何も無い時代に一緒にレースを始めた仲間だ。マリオとクレイはノーマルな良い人間だった。ジャッキー・イクスはちょっと気取っていた(笑)。ジャッキー・スチュワートも割とそんな感じ(笑)。マイク・ヘイルウッドはとても良い人だった。ピーター・レヴソンはお坊ちゃんだった。フランソワ・セヴェールは自分でハンサムだと知っているタイプ(笑)。何しろブリジッド・バルドー等の有名女優やモデル付き合っていたからね。僕が個人的に最も尊敬していたドライバーはジョー・シフェール。フォーミュラとプロタイプの両方を巧みに乗りこなす事が出来て、しかも速かったんだ。」

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「ニュルブルクリンクで起きたニキの事故で救出に向かったドライバー達の中で312T2のシートベルト・バックルを外すことが出来たのは僕だけだったという伝承は真実だ。フェラーリのバックルの外し方はシステムが独特で、経験が無い他のドライバーには外せなかったが、かつてフェラーリ・ドライバーだった僕はそれを知っていたということだ。映画“RUSH”劇中でも私がニキを救い出す場面が描かれているが、実際は一度に救出できたわけではなく、猛烈な熱さに耐えきれず火焔の中と外を出入りして、3度目ぐらいに漸く彼を引き出す事が出来たのだ。彼は頭部を中心に火傷を負っていたが、それよりもマズいのはFRPが焼けた時に発生したガスを吸ったことだった。呼吸器官がやられていたんだ。だからマシーンの外に引き出した後、僕は彼にマウス・トゥ・マウスを行って、ガスを吐き出させたんだ。レース中のレーサーはみんな動物だけど、あの事故現場を見た時は“動物から人間に戻って”助けに行った。ニキはあの時のことをとても感謝してくれていて、今でも事故のあった8月1日には“grazie(ありがとう)”と一言だけ書かれたメールを必ずくれるんだよ。」

「極端に低く沈み込んだドライビング・ポジションに関しては“ちゃんと周囲が見えているのか”、とよく聞かれたけど、僕自身はちゃんと見えている。その証拠に僕はそんなにひどいクラッシュを起こしていないでしょう。ジム・クラークだって、このような低いスタイルだったんだ。」

「カウボーイ・ハットを被るのはマールボロからの要請ではなくて僕が考えたんだよ。子供の頃からカウボーイが好きで1967年に初めて渡米した時に買ったんだ。テキサス・スタイルのカウボーイ・ハットだ。コロラドは形が違うんだ。1968年からサーキットで被るようになり、1972年にマールボロと契約してから、イタリアのPR担当者に、僕のカウボーイ・ハットにマールボロ・ロゴを着けると宣伝イメージ的におもしろいんじゃないかと提案したんだよ。今では煙草の宣伝が許されていないのでロゴを付けていないけど、マールボロは今でも僕に援助してくれているんだ。ヘルメットの跳ね馬マーク(キャバリーノ)はいまだに僕だけが着けることを許されている。ただし僕のマークの馬はフェラーリとは逆で尻尾が下がっているんだ。手綱も付いていて、僕が跳ね馬をコントロールするという意味を込めた。もちろんこれはジョークだよ(笑)。」

「当時操縦したF1マシーンの中で最も好きだったのは1974年の“イソ・マールボロ”だ。エンジン、ギアボックス、サスペンションとか、しょっちゅうどこかが壊れたけど、壊れなかった時は全てが僕にしっくりと馴染んでくれる楽しいクルマだった。プロトタイプではアバルトの 2リッター・スパイダーだ。ヨーロッパ選手権を獲得した時のマシーンで、コクピットに乗り込んだ時にお気に入りの洋服のように感じる、自分の感覚に合ったクルマだった。」

「ロニー・ピーターソンは温和な良い男だった。ロニーの走りを気に入ったアラン・リースたちが潤沢とは言えなかった下積み時代のロニーを水面下で援助したところから関係が始まり、マーチ・エンジニアリングの準備が整ったところで正式にチーム入りをオファーしたのだと思う。アバルトと僕、現代で言えばロン・デニスとハミルトンの関係に似ている。ロニーは突出して素晴らしいドライバーだった。そのドライヴィング・テクニックは本当に抜群だった! 彼はドリフト・アングルが大きいので、抜ける状況でも抜きにくくて頭に来ていたけどね(笑)。モンツァの事故の時は駆けつけて彼をケアした。両脚はボロボロだったけどロニーの意識はちゃんとしていた。ニキの時同様にこの時も火災事故だったので、マウス・トゥ・マウスを施してガスを吐き出させた。手術で脚を切断していれば助かったのではないかとも思うが、当時チャンピオン級のドライバーであったロニーの脚を切断するという決断は誰にもできなかっただろう。」

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